「リシュリューの人生」1623-1630年の詳細ページに「欺かれた者たちの日」追加。
マリ・ド・メディシスにしてみれば、取り立ててやった男が自分の利害と対立するようになったうえに、国王の方に軸足を移動させていった。許しがたい!ということなのだろうけども…。リシュリューも相変わらず尊大だと言われているし、いつも一緒にいると感じの悪いやつだったのだろうなー。しかしルイはよく決断した。クセ強めリシュリューの才能を見抜き、取り立てていたところがルイの偉大なところ。
「リシュリューの人生」1623-1630年の詳細ページに「欺かれた者たちの日」追加。
マリ・ド・メディシスにしてみれば、取り立ててやった男が自分の利害と対立するようになったうえに、国王の方に軸足を移動させていった。許しがたい!ということなのだろうけども…。リシュリューも相変わらず尊大だと言われているし、いつも一緒にいると感じの悪いやつだったのだろうなー。しかしルイはよく決断した。クセ強めリシュリューの才能を見抜き、取り立てていたところがルイの偉大なところ。
「リシュリューの人生」1623-1630年の詳細ページに「北イタリア侵攻」追加。
ジョセフ神父とブリュラールが結んできた条約を破棄するリシュリュー。ジョセフ神父との打ち合わせ不足なのか? ブリュラールはリシュリューが失脚させた元首席大臣ニコラ・ブリュラールの息子、ピエール・ブリュラール。
ようやくイタリア侵攻までたどり着いた。次はマリとの決別。
「リシュリューの人生」1623-1630年の詳細ページに「北イタリア侵攻」一部追加。
なかなか更新ができないです。もっと時間がほしい。リシュリューがまだ若くていろいろカッコいい見せ場がある時代ですね。
「リシュリューの人生」1623-1630年の詳細ページに「ユグノーとラ・ロシェル攻囲戦」追加。
苛酷な戦いでした。補給を断って包囲を徹底させる。城塞から抜け出そうとする者にも容赦はない。飢えと病気が蔓延し、人口が半分に減っても抵抗し続けようとする人々。降伏しても聖バルテルミ虐殺事件の二の舞になると恐れてのことだとか。
リシュリューはリュソン司教時代にユグノーとの接触があり、近隣のユグノーの有力者とも連絡を取り合っていて、当時から宗教的な衝突を回避しようとしていました。改宗させることの難しさも知っていたのでしょう。
しかし彼の権力基盤はまだ盤石ではなく、フランス王権もまだ弱かった。国内外に問題が山ほどありながら、足をひっぱられ身動きできなくなることは避けたい。とにかく徹底的に戦う必要がありました。
軍人教育を受けていたことが役に立ったでしょうか。彼自身、軍人でありたかった気持ちもあったかもしれません。鎧を着こんで馬上で指揮をとったくらいですから。彼の名前アルマン(Armand)には「軍の」という意味も含まれているそうです。
しかし弱音を吐くこともありました。ジョゼフ神父には「負けるかもしれない」と。この友人は叱咤激励しました。
ともあれ彼は勝ちました。そして国内のユグノー問題を一掃し、はっきりと目に見える戦いと勝利で国王ルイの信頼も高まったでしょう。ラ・ロシェル攻囲戦での勝利はリシュリューの人生で輝かしい業績として残ったのです。
「リシュリューあれこれ」に「顔を盗まれたリシュリュー」追加。
ミイラ状態でもフィリップ・ド・シャンパーニュの肖像画を彷彿とさせる。頭が大きかったのだね。革命時にはアンリ4世の頭部も紛失し、最近見つかったとか。頭部を盗んだり自宅に飾る心理がよくわからん。デカルトもモーツァルトもハイドンも頭部を失ったことがあるね。復活の日のために火葬しないのに、パーツが足らなきゃ復活できないじゃん!もう。
「肖像画など」にクロード・デルエ作の肖像画を追加。
珍しく僧服ではなく、どうやら軍人姿らしい。ラ・ロシェル攻囲戦の頃の肖像画で、武勲をたたえる意味合いで作られた作品だとか。若々しいです。ズケットかビレッタをかぶっている絵ばかりなので、無帽は希少です。リシュリューのおでこ。たいてい帽子から前髪がぴょこっと出ている絵だけど、この絵を見ると果たして飛び出すほどの前髪があったのかどうか微妙・・・。
コンチーニの名前がコンチーノ。コンチーノ・コンチーニ。あれ? ガリレオと同じパターンですね。ガリレオ・ガリレイ。あとグッチオ・グッチも。トスカーナ地方では長男に家名の男性形をつけるという風習があるそうなんですね。トスカーナといえばマリ・ド・メディシスのご実家。コンチーニもトスカーナ出身です。ガリレオもトスカーナはピサ出身だそうで。グッチはフィレンツェですね。
ガリレオの人生はリシュリューともかぶっていますし、没年は同じです。国は違いますが、お互いに名前くらいは聞いたことあったでしょうか。どうでしょう。リシュリューは文学や芸術の保護に努めましたが、自然科学との関りは聞こえてこないのがちょっと残念。
「リシュリューの人生」1623-1630年の詳細ページに「シャレーの陰謀」追加。
シュヴルーズ夫人のリシュリュー潰しの執念がすごすぎる。ずいぶん嫌われたものだ。本文にはUPしなかったがシャレーの処刑もむごすぎる。コンチーニ暗殺もそうだが、命の扱いが雑すぎて震える。
「人名録」にシュヴルーズ夫人とバッキンガム公を追加。
破天荒なレディですね。何がしたかったのだろうと思わなくもない。ところで彼女の年の離れた弟もスビーズ公、彼女の遠い親戚もスビーズ公、紛らわしいですが違うタイトルなのですね。「prince de --」と「duc de --」は別ですか。勉強になりました。
「リシュリューの人生」1623-1630年の詳細ページに「イギリスとの結婚、アミアン事件」追加。
王妃のこと好きだったとは思えないんですが。ましてやシュヴルーズ夫人のことも。派手やかで美しいものは好きだったでしょうね。中世の宮廷恋愛譚のように、騎士が王妃に愛情をささげる疑似恋愛を楽しんだのではないでしょうか。
「リシュリューの人生」1623-1630年の詳細ページに「ヴァルテリン戦争」追加。
久しぶりに更新できた。ヴァルテリンの資料を調べていて今更ながら当時のフランスが今より小さいことに驚く。リシュリューがんばったな。いやルイ14世か。しかし基礎を作ったのはリシュリューだな。
「リシュリューの人生」に1615年から1622年の詳細ページ追加。「用語集」追加。「人名録」にリュイーヌ、コンデ公、オルレアン公ガストン、シュリ公を追加。